都立国分寺高校卒業生47~52期による劇団

偶然と必然とエントロピー【ブログリレー企画第12回】

偶然と必然とエントロピー【ブログリレー企画第12回】

 

加藤です。青うさぎでは主に脚本を書いており、俳優にも挑戦したいと思っている今日この頃でございます。

前回担当の前田から引き継ぎました。短いながらに示唆に富んだ面白い記事でした。

前田によると、加藤は宇宙の秘密を書くみたいです。

とりあえず、最近どハマりしているものについて書こうと思います。みなさんは「ジェネラティブアート」なるものをご存知でしょうか?いくつか私のつくったジェネラティブアートをお見せしたいと思います。

 

 

 どうでしょうか?面白い?つまらない?…とりあえず、そういった目線を抜きにしてひたすら作っているところです。

 私、絵は全くと言っていいほど描けませんが、ジェネラティブアートは描けます。正確には、書くよう指示できます。どういうことかといいますと、ジェネラティブアートとは直訳で「生成芸術」。コンピュータプログラミングによって生成する芸術なのです。

 生成、というと、昨今流行りのAI、Stable Diffusionなどが思い起こされますが、あれは模倣、写実を重視したジェネラティブアートのごく一部です。私がハマっているジェネラティブアートは、javascriptというプログラミング言語のアート特化型ライブラリであるp5.jsで行うもので、AI生成のように言葉で指示を与えるというよりはガッツリプログラミングをする感じです。

 しかしガッツリプログラミングをするからといて、それによって1から10までをコントロールするのは、ジェネラティブアート的な考え方ではありません。キーワードは「偶然性」です。

 ここでもう一度先ほど載せた画像をご覧ください。似たようなパターンで違う模様の組みが2つありますね。これ実は、似たパターンのものは全く同じプログラムから生成されているのです。

 プログラミング言語にはrandom関数というものがあります。端的に言うと実行するたびに違う結果が現れるように設定できるのです。これを利用するのがジェネラティブアート的発想です。

 例えば、上の2枚のプログラムは、ある程度決まった形の曲線の束ね方をコントロールすることでリボンっぽいまとまりをつくり、そのリボンをある程度ばらけるようにコントロールし、ある程度角度にもばらつきが出るようにコントロールし、また配色もある程度コントロールしつつ、最終的なそれぞれのパラメータの決定は偶然性に任せています。更新ボタンをポチポチするたびに違う模様が生成されるので面白いですよ。

 

 

openprocessing.org

  

  では、ただ面白いと思うものを紹介するだけでなく、「なぜこれまでにジェネラティブアートが自分にとって魅力的なんだろう?」ということを考えていきたいと思います。

 その上で重要になるキーワードは、やはり「偶然性」です。近代化は日常から偶然性を排除しコントロールしやすくするプロセスでしたが、それが進みきった感のある昨今、どうでしょう。何か退屈ではありませんか?

 仕事の退屈さは言わずもがな。娯楽でさえ、パッケージ化されて「遊ばされている」感をどこかに感じながらしなければならない。もっと言えば、「偶然性を求めて生きよう」というのも一種の必然であって、例えば偶然を求めて旅に出たとてせいぜい目に入るのは管理された自然もどきで、どこもかしこも文明だ、必然だ、と絶望して家に帰るわけです。

 私は物事の理解が比較的早い人間です。その特性に助けられたことも多いですが、しかし一方で、それは物事をシステム化して捉えることが得意ということにすぎず、偶然へのときめきをそぎ落とし必然にしてしまう傾向が人よりも強いという退屈な思考回路とも言えるのです。

 世の中でよく言われる「頭のよさ」とはこの偶然へのときめきをそぎ落とす力のことを指すのかもしれません。しかし私はそれは近代的な一視点にすぎず、それだけでは人生の面白さに限界があるものだと強く感じています。

 その点、ジェネラティブアートという営みは、言わばもう一つの世界をコンピューターの画面に生成することです。そのもう一つの世界では重力の方向、強さ、色や光のルールなど、あらゆる物理法則を変え、偶然の出会いをし続けることができます。

 ある法則がある場に自分で何かしらのパラメータを操作できるものをインプットし、偶然性込みのアウトプットを享受する。藍染めや盆栽のような魅力があると言うとわかりやすいでしょうか。その意味では、日本人のマインドにかなり近い芸術分野なのかもしれません。

 洞窟に液が染み出して何年も経たないと現れないような面白い模様が、仮想空間の重力を設定することで一瞬で作れたりするのです。これは人の手による再現では不可能なことです。人の手でやってもせいぜい模写にしかならないところを、きちんとシミュレーションという形で見ることができる。

 自然のそのままの形がまだ残っているような河原や森にいって未知の植物やコケを見るのと同じように、ジェネラティブアートを見る時、自分はテーブルに座ったまま動きませんが、確かに新しい世界を旅しているのです。

 画面の中にありながら、公園の木のような、自然に見えて管理されている文明の一部よりもはるかに自由な振る舞いをする。人工的であるように見えて、私たちが「自然」と呼んでいるものよりも本来の意味で自然的である。それがジェネラティブアートの魅力なんだと思います。

 ジェネラティブアートの美とは、偶然性の美であり、それはすなわち自然の美なのです。

openprocessing.org

 ↑クリックするたびにオーブがとび、一定時間ごとに重力加速度が反転したりする作品です。

 このあたりで終わってもいいのですが、先生も五月病なのか、授業が休講になったのでもう少し。自分に対して感じたツッコミです。

 音楽や脚本における自分の手癖はジェネラティブアート的マインドの逆じゃね?

 これは下手したら卒論修論が書けてしまいそうなテーマだなと思っているのですが…

 音楽、脚本。まとめて時間芸術としましょう。もちろん時間芸術にも偶然性を重視するものはポストモダン以降多くありますが、自分はそれらを作るときゴリゴリに意図をもって作っている、つまり必然性重視で作っている傾向があります。

 音楽の場合は「このコードの次にはこのコードがくると見せかけてこうして…」/脚本の場合は「ここでこのセリフを際立たせるためにここをこうして…」みたいな。気づいたら、必然性とそれの裏返しとしての意外性をコントロールする方向になってしまいます。

 私は自分のそういうこねくりまわす手癖があまり好きではなく、もっと必然性や文脈感を薄め、スッと流れるようなものを作りたいというのが目標なのですが、しかし一方で、音楽や脚本に関しては、偶然性に任せる域にまで行ってしまってはいけないという漠然とした自分ルールがあるのです。

 

 ジェネラティブアート→偶然性を全肯定してやっている
 音楽、脚本→偶然性を必ずしも肯定せずやっている

 

 この違いはなんなんだろう?というのが最近の自分のメインテーマです。

 芸術史を辿ってみても、偶然性が重視されるようになったのはごく最近であり、裏を返せばそれまでは必然性の世界だったわけです。必然性によって構成されたものを求めて、人は芸術に集まっていた。

 偶然性の持つ美、面白さと、必然性のもつ美、面白さ。この両方の美的視点が人間にはあるようです。

 

 ここからは私の仮説です。

 

 偶然性の美は自然的なものである、と上で述べました。必然性の美は、それに対して「文明的」である、と言ってみてはいかがでしょうか。

 これもまた上で述べたことですが、文明なるものは退屈です。偶然性をそぎ落とし便利で合理的な世界をひたすら追求する機構です。

 しかし、文明によって大いに助けられているのは事実です。私は本当に運動ができないので、もし自分の所属する共同体が狩猟採集民族であればとっくに死んでいるか、シャーマンになっています。

 人間は文明を発展させる方向で進化してきて今この文章が読める世の中ができているわけなので、人間には自然的なものを美しいと思う機構の一方、文明的なものを美しいと思う機構が備わっていると考えるのは無理がないはずです。

 文明は治水から生まれました。川の流れという偶然を手なづけて必然に落とし込むところから始まったわけです。そのためにはなにが必要か?「ストーリーを作る」ことではないでしょうか。

 当たり前ですが、治水をはじめ文明的なプロジェクトを成功させるには大人数が必要です。その大人数がまとまるためには、それぞれが頭の中にストーリーを作る必要があります。

 ストーリーを作るとはどういうことか。物心がついたころを思い出してください。「人間は朝に起きて昼に仕事して夜に寝る」「春の次には夏がくる。その次には秋がくる…」「1日は24時間である」この程度の時間認識すら、できていなかったですよね。

 我々が当たり前にしている時間認識とはそもそも文明によって作られた恣意的な区切り方です。本来始まりも終わりもないものに無理やり枠を作り、その中を無理やり操作することで私たちは行動を自己管理できるのです。

 そして、時には「幸せ」「神」「賢者の石」など形のないものを無理やり信じることで自分の作るストーリーを一本化します。

 我々は毎日、「今日」「今週」「今年」「一生」というストーリーを作り自ら享受しているのです。全員、作曲しながら演奏していて、脚本を書きながら演じている。

 これが、ストーリー的なもの、つまり必然性によって結びついたものを「良い」「美しい」とする理由ではないでしょうか。音楽やよくできた脚本は言わば理想の人生のモデルです。私たちはバッハ、あるいはショパン、あるいはドビュッシーの曲のように、今週を過ごしたいのです。

 私が時間芸術を組み立てるにおいては偶然性に振り切れないのは、バッハ、あるいはショパン、あるいはドビュッシーの曲のような脚本を書きたいと思っているからなのでしょう。私は音楽や脚本に自分の理想の生き方を無意識的に投影しているのだと思います。内容というよりもその形式的な面において。

 

 …超長くなってしまいました。まとめます。

 

①ジェネラティブアートはおもしろいよ

②ジェネラティブアートの持つ美は偶然性の美=自然的な美だよ

③必然性の美=文明的な美というものもあるんじゃないかな

 

 ③の考察をどういうふうにアウトプットすれば良いんだろう…というのが最近の悩みです。論文なのか、作品なのか、他の何かなのか…。乱雑さ「エントロピー」を芸術やよりよい生き方といかに関連づけるかは自分の永遠のテーマになると思われます。

 最後に。ここまで色々なことに視点を広げて考えられるようになったのは演劇という超複雑な文脈が入り乱れる芸術に触れられたから、もとい、その場である青うさぎのおかげだな、と思っています。日々感謝感謝。

 そんな青うさぎの次回公演!

 

劇団 青春の庭のうさぎたち

第5回定期公演 『FRAME』

2023年8月25日(金)~27日(日)

@現代座会館 現代座ホール

 

「枠」をテーマとした、オムニバス公演です。何かテーマがある時点でそれは「枠」ですが、言わば「枠という枠」がある今作。

全然違うお話がならびつつも、枠の存在は重力のように共通していて、そこに現れる身体性、自然と文明のはざまが見られるような公演になるんじゃないかなと思います。

 新しい作り手たちが活躍してくれる舞台で、とても楽しみです。

 

最新情報は、各種SNSにて公開ですので要チェック!

linktr.ee

 

以上加藤でした。

次回はブログリレー企画最終回!加藤の6年来の後輩(自分で書いててびっくりした)にして、自分の作品「シェイプレス」を形にしてくれた演出家、今野です。乞うご期待。